電子契約が進んでも残る「印鑑文化」
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日本においては、政府が「脱ハンコ」を推進し、電子契約の導入が進められているにもかかわらず、依然として「印鑑文化」が根強く残っています。その背景には、法的な側面だけでなく、文化的・慣習的な要因が複雑に絡み合っています。
電子契約が進んでも印鑑文化が残る理由
最も大きな理由の一つは、取引先や顧客が電子契約に対応していない、あるいは紙での押印を希望するケースが多いことです。特に古い慣習を持つ企業や、デジタル化に不慣れな個人事業主などとの取引では、紙の契約書に印鑑を押す形式が求められがちです。
「ハンコの方が丁寧」「ハンコを押すことで安心感がある」といった心理的な要素も無視できません。これは長年の慣習が根付いていることの表れです。
社会全体として「ハンコがないと不安」という意識が残っているため、一部の企業が電子契約を導入しても、取引先との間で足並みが揃わないという課題があります。
「二段の推定」など、法的な効力の担保としての安心感
法律上、契約は当事者の合意があれば成立し、必ずしも押印や署名が必須ではありません。しかし、日本の裁判実務では、契約書に本人の印影があれば、その印影は本人の意思に基づいて押印されたものと推定され(一段目の推定)、さらにその文書全体も本人の意思に基づいて作成されたものと推定される(二段目の推定)という「二段の推定」という考え方があります。
この「二段の推定」は、契約書の真正性を証明する上で非常に強力な根拠となります。電子契約においても電子署名法により同様の法的効力が認められていますが、多くの人にとっては物理的な印影が残っている方が、心理的に「確実な証拠」として受け止められやすい側面があります。
社内ルールや慣習
企業によっては、未だに「稟議書には複数人の押印が必要」「契約書には必ず実印を押す」といった社内規定や慣習が残っている場合があります。これらの社内ルールを変更するには、組織全体での合意形成やシステム改修が必要となり、時間とコストがかかるため、電子化が進みにくい要因となります。
特に、稟議や決裁フローにおいて「ハンコを押す」という行為が、承認者の責任を表す象徴的な意味合いを持つことも少なくありません。
印鑑証明が必要な手続きの存在
不動産登記や自動車の売買、銀行の融資など、一部の重要な手続きでは、依然として実印と印鑑証明書が必須とされています。これらの手続きが電子化されない限り、実印の文化は残り続けることになります。
コスト意識の低さ(既存の慣習の温存)
ハンコを押すこと自体は、個々の社員にとっては手間やコストとして認識されにくい場合があります。「ただハンコを押すだけだから手間がかかっていない」と感じる層も存在し、現状維持が優先されがちです。
企業全体で見た場合の「紙代」「印刷代」「郵送代」「保管スペース代」といったコストや、捺印のための出社による「人件費」「通勤時間」などの見えにくいコストが、なかなか経営層に伝わりにくいという側面もあります。
「脱ハンコ」は、業務効率化やコスト削減、テレワークの推進といった点で大きなメリットがあるため、今後も政府主導で推進されていくでしょう。
しかし、上記のような要因から、完全に印鑑がなくなることは当面ないと考えられます。おそらく、今後は以下のような形での共存が進むと予想されます。
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用途による使い分け
日常的な社内文書や軽微な契約は電子契約・電子承認システムへ移行し、実印や銀行印が必要な重要度の高い契約や法的手続きは、引き続き物理的な印鑑を用いる。 -
電子印鑑・電子印影の活用
電子契約システム上で、印影のイメージを貼り付ける「電子印鑑」や、電子署名と紐づいた「電子印影」を使用することで、見た目の慣習は残しつつ、デジタル化を進める動き。 -
世代交代と意識の変化
デジタルネイティブ世代が社会の中核を担うようになるにつれて、印鑑に対する意識も徐々に変化していく可能性があります。
電子契約は着実に普及していますが、印鑑文化が完全に消滅するには、社会全体の意識改革と、それに伴う法制度や慣習の見直しがさらに進む必要があるでしょう。